まるで、夢の中にいるような感覚だった。 夢か現実かハッキリと認識出来ぬまま。 そうしている内に、いつの間にか、秋になっていた。 「私、未だに夢か現実か理解出来ない時があります。」 正さんの部屋のソファに腰をかけ、ポツリと呟いた。 いや、正確にはポツリというより、ポロリと言葉が口から零れたのだ。 言った後、私は後悔をした。 「何、がだ?」 正さんは、飲んでいた珈琲をコトリとテーブルに置くと、怪訝そうに返事を返した。 あぁ、また正さんに心配をかけてしまう。 口から出た言葉を取り戻す術があるのなら、今、それを使いたい。 後悔先に立たずである。 正さんに心配をかけたくない。当主、そして、頭取の仕事にいつも忙しいのだ。 何故、あんな言葉を言ってしまったのか。 私は、後悔をした。 「何か、不安があるのではないのか?」 「……そういう訳ではないんです。」 理由を聞かれ、私は言葉に詰まった。 言わなければ良かった。 正さんが、心配しているのが分かる。 正さんは黙り込んだ私を見て、姿勢を直した。 組まれていた長い足が、床へ落ち着く。 「はる、」 名前を呼ばれた。 優しい優しい声で。 それだけで、私は泣きそうになる。 優しい口調。 正さんの優しさが、辛い。 私はなんて、馬鹿者なのだろうか。 「言ってくれ。言わなければ、分からない。」 いつにも増して、真剣な口調の正さんに負けてしまった。 「……悲しくなってしまうのです。」 「それは、どうしてだ。」 「これが、今が、夢だと思うからです。」 泣きそうになった。 何故泣きそうになるか分からない。 正さんに泣き顔を見られたくなくて、私は下を向く。 深紅のゴミ一つないふかふかの床が、目に入る。 「私は十八年間田舎で育ちました。帝都で使用人を務める事ですら、私には夢のような日々でした。 なのに、今は正さんの妻。私には夢のような話です。 夢のように幸せな日々です。 ですから、夢か現実か分からなくなってしまうのです。 夢だと思うと、悲しくなるのです。」 正さんが、どんな顔をしているか分からない。 口を開いてしまえば、様々な言葉が沢山零れる。 ずっとため込んでいた想い。 私のような田舎育ちの使用人娘が、正さんの妻になった。 こんな事が、現実にあって良いのだろうか。 「幸せなんです。正さんと一緒にいれることが。幸せなんです。 こんなに幸せだと、夢だと思うのです。 きっと、夢なんです。 私は、目覚めなければいけないのかもしれないのです。 それが悲しいのです。不安なん……」 「――夢ではない。」 耳元で声がした。 顔を上げると、正さんがすぐ横に座っていた。 私の肩を、大きな手で包み込む。 「お前は何故、そんなに涙をためているんだ。」 「だ、だって……」 「夢ではない。これは、現実だ。」 「本当ですか?本当ですか?私は、本当に今現実にいるのです――…んっ」 急に、正さんが口づけた。 触れるだけの優しい口づけ。 「今、何を感じた?」 「な、何をとは…?」 「今、何を感じた、と聞いている。」 「た、正さんの……その、く、唇を……。」 「そうであろうな。接吻をしたのだから。」 正さんは、偉く真面目な顔でアッサリと恥ずかしい言葉を言ってしまった。 「私もはるの唇を感じた。はるも感じたのであろう?」 私は恥ずかしくて、返事も出来ず、ただコクリと頷いた。 「感じる、ということは夢ではない。夢の中で、感覚はないからな。 ……そして、もし夢であるのならば、いい所で目が覚めるであろう?」 そう言って、正さんは唇の端を上げた。 してやったり、まさにそんな顔だった。 「さぁ、これで今の状況が現実と分かったであろう?」 「……は、い。」 正さんの急な行為、そして、言葉に私の今までの不安が一瞬で消えてしまった。 まるで魔法だ。 私の不安なんてちっぽけなことで、正さんにかかれば、すぐに消してしまえる。 なんて、不思議なことだろう。 そして、こんなちっぽけなことで悩んでいた私は、なんて大馬鹿者なんだろう。 「一回だけでは不満か?なんなら、もう一度口づけてもいいが。」 「も、もうっ!結構です!!」 私は、恥ずかしさのあまりに、スカートの裾を掴んでソファから立ち上がった。 その瞬間、正さんが腕を掴んだ。 暖かい、大きな手。 「今後も何かあったら言え。私はお前に何も言われないことが、不安だ。」 メガネの奥の真剣な瞳に、強い意志に、優しい口調に、また涙が出てきた。 私は、両手で顔を覆った。

口づけの訳 (この人の妻になれて、本当に良かった。)

<10.10.01>