雨の日の夜。 あと少し、あと少しと思い、研究所に籠っていた。 気付いた時には、辺りは真っ暗で夜も更けていた。 街は静まり返り、街灯の光だけがぼんやりと辺りを照らしていた。 けだるい。 心なしか、なんだか頭も重たい。 別に体調が悪いわけじゃない。 研究所での仕事は楽しく、順調だった。 エゲレスで着実に進めてきたことが、実になろうとしている。 毎日が楽しくて、刺激に満ち溢れていた。 好奇心は止むことを知らないらしい。 けれど、何故自分の気分が鬱々するのか。 理由は分からなかった。 迎えの車が来るまで、少し思案しようと考えを巡らせた。 その時だった。 見なれた姿が、目の前に現れた。 「ひーろしっ、」 しとしとと雨の降る中、そこには最愛の妻がいた。 「はるっ……!?え、なんでここに!?こんな所でどうしたのさ!」 右手で傘を差し、もう片方の手にも同じ色の傘を持ちながら、イタズラっぽく笑うはる。 突然の出来事に、俺は目を疑った。 「驚かそうと思って来ちゃった!」 俺の驚く顔が面白かったのか、はるはクスクスと手を当てて笑った。 その仕草が、女の子らしくて可愛いと思う。 25の女性の女の子らしいだなんて、失礼かもしれない。 けど、その言葉がはるにはしっくりとくるのだ。 「今日も、お仕事お疲れ様です。」 「でへへ、ありがと」 「博ったら、ずっとここにいたのに、気付かないんだもん。」 そう言って、はるは傘を差し出した。 紅色の傘。はるの白い手に、よく映える。 「たまには、一緒に帰ろうと思って。」 差しだされた傘。小さな手。細い腕。 俺は頷き、傘を受け取ろうと、手を差し出した。 触れた手が氷の様に冷たくて、思わず、もう一度触れる。 「はるの手、冷たい!まさか、ずっと待ってたなんて言わないよね…?」 「へへへっ、」 少し罰の悪そうに笑うはるを見て、変わらないな、と思う。 それと同時に呆れと心配が、心に押し寄せる。 いつも無茶をするんだ。 昔っから変わらない。 「ダメじゃない!こんな寒い所いたら風邪ひいちゃうだろ、もう!」 はるの手を、両手で握りしめる。 ぎゅーっと、きついくらいに。 アイスクリィムみたいな、冷たさ。 「博の手、暖かーい」 「暖かいじゃないよ!もう!風邪で倒れたりしたら、どうするの?俺、すごく心配するよ。」 「大丈夫だって!それに、最近、博と一緒にいる時間が少ないんだもん。きっと、お家に帰ってきたら、すぐにお休みになりたいと思って。なら、帰る時間を共有すればいいって思ったの。」 そう笑顔で言われて、胸が痛んだ。 そういえば、ここ最近、全くはると落ち着いて話す時間がなかった。 毎日研究室に籠っては、遅くに帰り、はるを家で一人っきりにさせていた。 「ご、ごめん。やっぱり、淋しかった、よね……?」 「……正直に言えば、淋しかったよ。」 ずきりと痛む心。 あの家に一人ぼっち。 一人でどんな風に、日を過ごすのだろう。 何を想い、何を考え、一日を過ごすのだろう。 そう考えた瞬間、切なくなった。 俺は、一緒にいると誓った妻を家で一人置き去りにし、放りっぱなしにしていたのではないか。 「でもね、博を待つことは全く苦じゃない。伍年に比べたら、半日くらいどってことないもん。毎日、博の事を考えながら、家事とかお裁縫とか読書とかするのは、楽しい事なのよ。」 そう笑いながら答えるはるを見て、何故か安心をした。 不思議だ。 はるの笑顔に、切ない気持ちが和らぐ。 そして、さっきまでの鬱々とした気分が、嘘みたいに消え去ていた。 けだるささえも、忘れてしまうくらいだった。 「……そっか、そうだったのか。」 何故、こんな気分だったのか。 答えは単純だった。 愛しい人に触れていないから。 こんなにも簡単な答えだったのだ。 「伍年も待たせて、今日も待たせて。本当に駄目な夫だね、俺は。」 「そっそんなことないよ!博は、素敵な夫だよ!さすがに、エゲレスは迎えにいけなかったけど。今は、迎えにいける距離だもん!全然、平気なんだから!」 優しい声に、笑顔に、その仕草に、胸が熱くなる。 思わず愛おしくなって、小さな体を抱きしめた。 ぎゅーっと、ぎゅーっと。 はるの「苦しい」という声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。 だって、強く抱きしめないと俺が無理なんだ。 いつも君は、俺を迎えに来てくれる。 俺の心を、迎えに来てくれる。 淋しかったのは、はるじゃない。俺の方だったんだ。 「ごめん。……今度は、今度こそは、俺が迎えにいくから。」 「へ?どこに?」 「君のいる所だったら、どこへでも。はるが呼べば、どこへでも。」

、迎えにいくから

<10.10.06>